ウラングラスとか人形峠とか‥福島県とか‥

はじめにお断り‥冒頭の部分は、実は震災前に、ちょっと気になって調べていました。

震災後‥当時調べてビックリした話やら、唖然とした事があったのは忘れていましたが

でも心の片隅には残っていて「これゃ福島県はエライ事になるぞ」とか思った話です。

前記事で「青色のコップ」を頂いた話を書きました。

色の「怪しさ」から、つい「ウラングラス」という、戦前にガラスの色として使われていた製法を思い出しました。

<引用>
ガラスにウランを混ぜることによる黄色や緑色の色彩を持つ透明なウランガラスが製造され始めたのは1830年代で、ウランが原子力に利用されるようになる1940年代までの間にコップや花瓶、アクセサリーなどの各種のガラス器がヨーロッパおよび米国で大量に製造された。

現在では民間でウランを扱うことが難しいために新たなものは極少量が生産されているに過ぎないが、骨董・アンティークとしてファンも多く、高値で取引されている。「ウランガラス(Uranglas)」はドイツ語の読みで、英語では「vaseline glass(バセリンガラス、または、ワセリンガラス)」と呼んでいる。黄色いウランガラスの色がワセリンクリームの色と似ているから、とされている。

ウランガラスの最大の特徴は、真っ暗闇の中で紫外線ランプ(いわゆるブラックライト)で照らすと緑色に妖しく輝き蛍光を発するという点である。紫外線ランプで照らすと緑色の強い蛍光が見られる。昔は紫外線ランプはなかったが、夜明け前の空が青色のときには空には紫外線が満ちているので、この時にウランガラスが蛍光を放つ事によりこの特徴が知られる様になった。

ウランガラスの色は黄色と緑色が殆どであるが、ピンク色、水色、青緑色、茶色、なども存在する。もっとも、紫外線を照らすと殆ど全てが緑色の蛍光を出すので見分け方は簡単である。
</引用終わり>
イメージ 1

えっと‥またまたお断りですが、青色じゃなく黄緑ないし緑が「ウラングラス」の色であり
青ってのは、思い出したキッカケであり、全くの無罪放免です。(^^;

<さらに引用>
国内におけるウランガラス
日本では、岩城硝子、島田硝子などがウランガラスの食器・ガラス工芸品を製造しており、大正から昭和にかけて、国産品が大量に造られた。さらに、小糸製作所は、戦前のSL(蒸気機関車)の前照灯にウランガラスを使用していて、現在、京都の梅小路蒸気機関車館に展示されている機関車にもウランガラスの前照灯が付いている。
日本のウランガラス製造も、第二次世界大戦で終わった。しかし、2003年になって、岡山県人形峠(旧:上齋原村)で、人形峠の国産ウランを使用したウランガラス「妖精の森ガラス」が開発された。2006年に開館した現地の「妖精の森ガラス美術館」で、所蔵品の美しいウランガラスの数々とともに、国産のウランガラスを見ることができる。
</引用終わり>

ここでのキーワードは「人形峠
これ‥震災前ですが日本でも放射性物質の元が採れる場所なんか、あったんだ!と衝撃を覚えて
色々と調べた事を思い出したキッカケです。

で、そのワードで、再度検索したら「人形峠展示館」と言う言葉がHitします。
多分調べた当時も、そのページも見たと思うのですが‥福島県双葉郡富岡町にあった

エネルギー館同様の「原子力万歳」なノリたった"らしく"あまり真剣に見なかったんだと思う。

(震災前から、そう言う傾向は好きではありませんでした。実際この日誌にチラホラ散見してるかもしれません。)

で、この「人形峠展示館」ですが、実は現在ってか少し前の今年の3月に閉鎖になってました。

<引用開始>
http://www.jaea.go.jp/09/xningyo/
重要なお知らせ
 人形峠展示館は、行政改革の観点から方針に沿って見直しを行い、平成24年3月31日(土)をもって展示館としての運営を停止致しました。昭和58年11月の開館以来、これまで約106万人の来館者をお迎えしました。長年にわたりご理解、ご協力いただきました皆様には、心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
 隣接しております人形峠アトムサイエンス館上齋原スペースガードセンター展示室につきましては引き続き開館しております。
</引用終わり>

行政改革の観点から方針に沿って見直しを行い、平成24年3月31日(土)をもって展示館としての運営を停止
さすが、こう言う事は仕事が早い。( ゚д゚)

↑この施設が、一体「どうだったのか?」は、
震災後の今年3月の閉館までの期間に行った方のブログで見る事が出来ます。
http://tabinist.exblog.jp/14584284/
この方のレポを見ると、遠く離れた西の地では、震災後のあれだけの事故があったにも関わらず
相変わらず「原子力万歳」な施設で「負」の部分を伝える事はしていなかった施設の様です。
で、周囲から「ケチ」が付いたとか、このノリはマズイだろ‥と言う事で閉じたんでしょうね。

実は福島で事故が起きる何年(何十年)も前から「汚染残土問題」は人形峠で起きていました。
そして現在も解決してないし、なおさら現在では解決しないでしょうね。

その汚染残土とは、発電所事故ではなく、ウランを彫った鉱山の残土の野ざらし問題。
これは震災前に調べた時に「人知れずこんな問題が起きてるけど殆どの日本人は知らない事だぞこれ‥」
と、その事実を知って驚きました。

その起こってる問題について書かれてるのが↓このページです。
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Ningyo-toge/Ugoki.html
ウラン採掘と人形峠旧ウラン鉱山

このページは読んだ当時、かなりの衝撃でした。
なので震災前(=原発事故前)に書かれた文なのもよく覚えています。

このページを初めて読む方は、書かれてる事全てに衝撃を受けるかもしれません。
いや、福島原発事故放射線が、どのような形であれ「身近」になってしまった今の福島県民には
衝撃が無いかもしれない‥のは皮肉かもしれませんが‥

事故後に改めて読み直して、より注目した部分があります。

<引用開始>
放置され続ける環境の汚染
人形峠でのウラン採掘を放棄したあと、動燃は海外からのウラン鉱石を人形峠まで運び込んで製錬・濃縮試験を始めた。当初、坑内労働にかり出された住民たちも、一部は動燃の下請企業労働者として働き、一部は静かな生活を営む山村の住民に戻っていた。
試掘のため住民から借り上げられていた土地もすでに住民の土地に戻っていたが、88年になって、その土地に鉱石混じりの土砂が20万m3(ドラム缶100万本分)、野ざらしのまま打ち捨てられていることが発覚した。
残土の堆積場では、放射線作業従事者でも許されないほどの空間γ線が測定され、半ば崩れた坑口付近では放射線取扱施設から敷地外に放出が許される濃度の1万倍ものラドンが測定された。
それでも、動燃は残土堆積場を柵で囲い込むなどの手段で残土の放置を続け、行政は安全宣言を出してそれを支えた。ただ、鳥取県側の小集落方面(「かたも」と読む)地区だけは、動燃、行政の圧力をはねのけ、残土の撤去を求め続けた。私有地の不法占拠を続けることになった動燃は、1990年になって、残土を人形峠事業所に撤去する協定書を結んだ。ところが、それまで残土の安全宣言を出していた岡山県は、事業所が峠の岡山県側にあることを理由に、鳥取県からの残土の搬入を拒んだ。動燃も岡山県の反対を口実に撤去を先延ばしし、10年目に入った現在も、残土は撤去されないままとなっている。
</引用終わり>

今日(コンニチ)の福島県と他県での「放射性瓦礫」の問題は、今に始まった事ではなく
岡山県鳥取県では「こう言う問題になるだろう」と、想定出来た話だと思います。
何と言っても原発事故やら震災以前から、実際に、こう言う問題を抱えていた訳ですから‥

それと、この文を始めて読んだ時の私の感想ですが
その辺の民間企業ではなく、国が深く関わってる事業所なのに、
「なんだ?このテキトウな処理は‥」と目を疑ったからです。

そして「人形峠資料館」は、まさに富岡町にあったエネルギー館その物で
「地元周辺住民への安全洗脳施設」だった訳で、安全神話が崩れた今、意味を成さないので閉館した訳です。

多分、このテの施設は、人形峠富岡町(ちょうど福島第一と第二原発の中間にある)に限らず
全国の原発自治体に用意されてる物だと思われます。

さて1個のコップからですが、以前見た記憶、
そして原発事故後の現在の私見を交えたりするとかなり色々と分かってくる事がありますね。

つまり「日本では前例がない放射線災害なので福島が初の試みで今後どうなるが?」が
全く見えない気がしていますが‥

実は「鳥取」と「島根」の間の人形峠の鉱山残土で、すでに前例があり…
それすら未だに解決出来ないのに
その何倍なんてもんじゃない福島県の汚染残土なんぞ、今後「どうなるか?」なんての
絶対解決出来っこありません。