炭鉱から観光へ 「積極路線」が病巣に

題名だけ見ると、どこぞの「い○き市」とか‥私の日誌を続けて読んで下さってる方なら
かえって思ってしまう内容ですね(^^;

でも、この話は北海道の夕張の話です。

<一部を引用>
元→http://www5.hokkaido-np.co.jp/yubari/seisui/index.php3
去った栄光
約六百三十億円もの巨額負債を抱え、財政再建団体入りを決めた夕張市は、かつて炭鉱、次いで観光開発の成功例として脚光を浴びた。転落を招いた原因は何か。盛衰の軌跡を振り返る。(6回連載しました)
<中略>
 「炭鉱のおかげで電気代もただ。夕張には東京にあるものがすべてあった」と、元助役で石炭の歴史村観光副社長の吉田米次郎さん(70)は振り返る。プロ野球金田正一川上哲治、大相撲の吉葉山栃錦-。公式戦や地方巡業で、スターが次々やってきた。

 炭都・夕張は最盛期に二十四の炭鉱を抱え、六○年の人口は約十一万人。炭鉱を経営する大企業が生活面などすべての面倒を見て、「体一つで行けば、その日から稼げる」場所だった。

 石炭を見限り、石油依存を強める国のエネルギー政策の転換で、栄光は去った。北炭は解雇した従業員が住んでいた炭住や上水道、炭鉱病院(現市立病院)まで放り出して撤退。夕張市は七九-九四年度、閉山の後処理に五百八十三億円の巨費を投じた。三百三十二億円が地方債として市民の肩にのしかかった。

 市内の建設会社社長は「北炭は夕張の石炭のもうけをよそで使った。炭鉱閉山後もいろんな人が来ては、金を得ると消えていった」と振り返る。

 道内経済の特徴といわれる「植民地」性が夕張では顕著だった。学芸員の青木さんは思う。「夕張は石炭発見の明治の昔から、一旗揚げたい人の歴史だった」と-。(横井正浩)
</引用終わり>

今日は夕張から町が消えて行く様を追った方のページを読みふけってしまいました。
炭鉱町の記憶⇒http://homepage3.nifty.com/rurounotami/tankoh_top.htm

上に引用した事例は、上で「勘違い」で挙げた通りに、炭鉱で栄えた頃までは
夕張と、いわきは非常に似ています。

と言うか唯一の違いは「その後の観光への転身に成功したか?否か?」かもしれません。
あの震災が起きるまで、地元(いわき)は工業で成り立ってる町と思ってたんですが
蓋を開けたら工業と観光がトントンだったにも驚きました。
(福島県で観光っていえば私は会津と思ってましたので)

上で紹介した「炭鉱町の記憶」さんでの画像を見ると、それは寂しい景色が多く
原炭ポケット、ホッパー跡、鉄道跡、映画館跡なんかが、相当被る物がありました。

観光への転身‥いわきも失敗していたら、こんな風になってたんだろうな‥と被る上に

原発事故で観光が衰退したら(してゆく‥んだろうなぁ‥)、どんな事になるのか?
そんな事も考えてしまいました。

所で、このHPの説明文に、こんな話が書かれていました。

<無断引用すみません>
写真の内容と少し話がズレますが、その町や村の産業がその企業にほぼ依存している場合、法治国家である日本の法規より、その企業の意思や掟が優先されます。北海道の炭鉱町が良い例で、●菱炭鉱など企業に睨まれた人はその町で生きてゆくことが出来ない「村」社会なのです。
</引用終わり>

この文を書かれた方は、あくまで「炭鉱」の話として書かれてる話ですが
私には震災前の「双葉郡と東電」の関係を思い出してしまいました。

高校の同級生には双葉郡住みの者もいました。
どこも変わらず同じ日本に住んでる者との思いでしたが
関係が親しくなり友人宅へ行く様になると、ある者は、やたらに東電を嫌っていました。
(私自身は、この頃始めて東電の発電所が何故か福島にある…とか思い始めた頃)
そこには、この方が書いた様な余所者には理解出来ない何か大きな物があったのでしょうね。