青ヶ島

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航空写真からの眺めの素晴らしさから、最近web上で一躍有名になった島で
世界からも美しさに対して評価を得てる様です。

…と、まぁ私も「そんなこんな」で知った島ですが、なにせ場所すら分からない…から調べてみました。

八丈島の下(南)にあります。(通常のネタの時よりも縮尺スケールがデカ過ぎですね。笑)
さらに青ヶ島を調べてみたら…目に留まったのが村長さんの文章。

村長挨拶

青ヶ島村のHPにアクセスいただきありがとうございます。

わたしたちが住むこの島は、伊豆諸島有人島で最も南に位置しています。江戸時代、天明年間に数度の噴火を起こし、島民200人余りが70㎞離れた隣島の八丈島へ逃れました。青ヶ島無人となり、半世紀におよぶ忍従を経て故郷へ島民全員が帰還〝還住〟を果たした歴史があります。

いま、人口170人あまり。全国最小の行政村でありますが、厳しい自然環境のなかで生き抜いてきた先人たちの歴史や文化を色濃く受け継ぎ、「起こし返せ」とさまざまな取り組みを行なっております。
このたび、HPをリニューアルいたしました。島の生活や観光情報など、青ヶ島の魅力を広く発信しています。近くて遠い・・青ヶ島。「青ヶ島」を身近に感じていただける契機になれば幸いです。

</引用終わり>

興味を持って、もっと調べてみたら、そこには驚くべき「復興」と「帰還」の話がありました。

<引用開始>
天明5年3月10日(1785年4月18日)、青ヶ島で大噴火が始まった。このときの噴火も八丈島から見ることが出来たため、「無人島」の探検後、八丈島に戻って来ていた惣兵衛は船に救援物資を積み込み、早速青ヶ島へと向かった。3月10日、八丈島を出発した惣兵衛は翌11日には青ヶ島近海に到着したが、島全体が黒雲に覆われ、時々稲妻のような火の玉が飛ぶのが見えるが、島の様子がほとんどわからない状態であった。しかも黒煙は青ヶ島海上の惣兵衛の船にも襲いかかるありさまで、潮の流れも悪くなったこともあり上陸を断念せざるを得なかった。

>このような状況を受け、もはや青ヶ島で生活することは不可能であり、島民はいったん八丈島へ避難するしか方法がないと名主の七太夫を始めとする島民は八丈島の島役所に申し立てた。このため八丈島の島役所では4月10日(1785年5月18日)に青ヶ島の視察船を出し、噴火による被害状況の確認を行なった。その結果、絶え間なく噴火による噴石や火山灰が噴出している状況は続いており、耕作地は厚い火山灰に覆われ畔がわからなくなっているほどであり、ほとんどの草木が枯れ果て緑は全く見えず、飲料水も極度に不足してわずかにある雨水も火山灰などの影響で飲むに耐えない状態である等、深刻な状況が改めて明らかになった。


天明5年4月27日(1785年6月4日)、八丈島島役所が派遣した3艘の救助船が青ヶ島に到着した。このとき青ヶ島には200人あまりの島民がいた。4月末になって噴火はいよいよ激しさを増し、島民たちは海に浸かりながら噴火による熱をなんとか避けている状況であった
激しい噴火が続く中、3艘の救助船は青ヶ島への接岸に成功したが、救助時に悲劇が起こった。3艘の船では200人あまりの島民全員を乗せることが不可能であったのだ。まず体力のない多くの老人、子どもたちが船に乗り遅れ、熱い火山灰が降り注ぐ中、船に乗ろうとして海で溺れる者や浜辺で乗せてくれと泣き叫ぶ者たちが大勢いた。言い伝えによれば船端に取りすがった人の手をやむを得ず鉈で切り落としたともいう。結局3艘の救助船には108名の島民と1名の流人の、合計109名が乗船し、130-140名の島民は乗船することができずに噴火が続く青ヶ島で死亡したと見られる

>また後年青ヶ島への帰島が試みられる中、激しいネズミの害に悩まされ続けることになるが、ネズミは青ヶ島で非業の死を迎えなければならなかった人々の霊魂が化したものと考えられ、

(中略)

>文政7年(1824年)4月、名主の次郎太夫らごく一部の島民を除き、ほとんどの青ヶ島島民が帰島を果たした。天明5年(1785年)4月の離島から40年が経過しようとしていた。

この件で興味があって全文をみたい方は此方へ⇒http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%84%E4%BD%8F
</引用終わり>

この島…単に綺麗なだけではなく壮絶な歴史があった過去があり
そして、そんな島なのに、40年も掛けて帰島を果たした…
その根性は何処から出てきたのか?とも思うけど
今の日本の様な「移動」(居住)の自由は保障されてなかった時代です。

今と同じ感覚で考えてはいけないのかもしれませんね。
でも「単に外見が美しい島」ってだけではない重い歴史が、この島にはある様です。

さぁて「福無島」の問題は、どうなる事やら…仮に40年掛かるとしても
私ゃ「生きてない」か?「ボケて何もわからなかうなってるか?」ですね。

今まさに「産婦人科で産声をあげてる子供達」であれば、
青ヶ島の歴史の様に最後まで綴れるかも?しれません。

その子供達が「昔、こんな文章を書いてた人が居たんだ」と
私が死んで数十年経った後も、この文章が残ってて見てくれたら…幸いかな。