ネット上で批判的なコメントを書くと罰せられる。米テネシー州でSNSの誹謗中傷コメントを合法的に罰する法案が可決される。

引用元→http://karapaia.livedoor.biz/archives/52180531.html
<記事引用>
 フェイスブックツイッター、ブログなどのコメント欄は、ネガティブで誹謗中傷なコメントで溢れている。いろいろな意見があっていいと言う主張はあるが、その発言には責任が伴い、内容いかんにほっては名誉棄損、営業妨害など、法的に罰せられるものもあり、時として、人を傷つけ死に追いやることだってある。

 米テネシー州サウス・ピッツバーグ市では、これまでソーシャルメディア上の批判や虚偽の書き込みによって業務が妨げられてことに対し、ネット上での批判コメントの投稿を全面的に禁止する法案を可決した。無責任な意見を書き込む人々に対し、言論の自由には責任が伴うということを改めて問う形となる。

ピッツバーグ市の新政策は市や市従業員など、関係者に関する批判的なコメントを投稿することを禁じるものだ。これは市会議員、役員、市の従業員、ボランティア、業者など、市の公務中にソーシャルネットワークを利用する者全員に適用される。適用対象となるものは、投稿動画、ブログ、オンライン・フォーラムでの議論、フェイスブックツイッターなどだ。

 「会議の度に、フェイスブックなどでの批判への対処に追われてきました。こうした政策は今日では業界スタンダードです」と述べるのは、委員会のジェフ・パワーズ氏である。彼によれば、市の従業員は同政策の承諾書にサインを求められ、違反した場合は懲戒される可能性があるそうだ。 

ポール・ドン・キング委員は反対票を投じた人物であるが、どちらの立場にも一定の理解を示している。「しかし委員会が言わんとしているのはこういうことです。『私は市の従業員ですので、あなたが話そうとしていることなら、夜にならお話しできますよ』と。それを言論の自由というのです。そんなものは理解できません。」

 パワーズ氏は、政策はソーシャルメディアの利用までは禁止しておらず、将来的に改正される可能性もあるとしている。

 「誰もが『これでは何もフェイスブックに投稿できない』と言うでしょうが、そんなことはありません。ただ人や団体や委員会などに否定的な意見を言わなければいいだけです。あとはどうぞ、ご自由に投稿してください」とパワーズ氏。

 市の弁護士によれば、新政策によって言論の自由を侵害する意図はないそうだ。同政策は、言論の自由と他の権利を調整するものであるため、ある程度公務における批判やコメントをする権利を制限することになる。しかし、これはそうした人たちにプライベートと公務との区別を付けることを奨励するものらしい。

 個人的な攻撃と否定的な意見に曝される人々を最小限にするために、「批判や根も葉もない嘘には対処しなければなりません」とジェーン・ドーキンズ市長は答えた。


 自由と権利をはき違えている人は多い。発した言葉には責任が伴う。たとえ匿名であっても、何かを批判するにはそれなりのリスクを負う必要がある。ネット社会となった今、暴力は直接的な力ではなく言葉となった。全ての発言には責任が伴うことを理解したうえでの発言は有意義であるが、単に何かを陥れるため、欲求のはけ口の為の発言には気を配るべきだというのが、今回の論調であろう。

 実際に無責任な発言により陥れられたり、死に追いやられた人もいる、匿名であると過信していても、実際にはどこからその発言が発せられたのか容易に追跡できる。ネット上であっても直接対面しているのと同様、発言には注意した方がよさそうだ。
</引用終わり>

先ず予め、以下に続く私の文。「オマエが言うな」と、私が1番思われそうなので
それを、お詫びすると共に、どこか?で切り替え点を持たなければ延々と続いてしまう事もあるので‥

このフェイスブックはヤった事がないので分かりませんが全体の流れとして
仮にハンドルネームがあったにしても、自分の正体を匿名に近い形になってるのが殆どだと思います。

実際、この日誌と言う名のブログであっても同様であり
私の住所氏名電話番号職業生年月日を記してる訳ではない。

そう言う立場で、そう言うのを明かしてる人や、企業にコメントをする際には
「相手が、貴方の素性を明らかにしてください」と言われたら「明かす義務が生じる」という
心構えや気持ちを以てすれば、こんなヤヤこしい事にまで発展しなかった訳ですが‥
私も含め「それが抜けて」しまってるんですよね。残念な事です。

ここまで書いてるんだから、以後の自分について、現時点で考えてる部分があります。
何でも他意、他者のせい‥と、してる訳では、無かったつもりですが‥

どうにも震災以降、何が原因か?はっきり分かりませんが
暴力的な思想や行動になってる自分が居る事に、最近気付きました。

何だろ‥書くもの恥ずかしい話ですが、ほんと利己的な考えで
「あれだけの思いをしたんだから、ちょっとくらいの我侭な言動行動をしてもイイだろう」とか
そんな風に思ってる気はしていませんが、多分「根」は、そこの様な気がしてます。

もう随分と前の事になりますが「阪神淡路震災」の時に被災した方が心にダメージを負って
そのストレスが、今度は思いもよらない方に出てしまい‥本人が苦しんでるとか
その震災数年後に良く聞いた言葉なのですが

その当時の私は(自分で身を以て知らない奴の失礼な戯言だったと今は思ってる事とお断りするとして)
『そんなもん、その人の心が弱いだけ』とか、軽く流しておりました。

なので自身に降りかかってきても、今度は「それ」を必死に否定しなければならず‥
そんなこんなのかも知れませんね。