(この記事の各画像、ちょっと容量が大きいです。落とす手間が面倒で‥すみません(^^;)
![イメージ 1](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/o/ookamigoya/20010101/20010101165140.jpg)
多分、その時代の頃のまんまです。
(車体形式の国鉄フォントって意味じゃないですよ。施設が公的機関ぽい感じって事)
トイレはホント、初めて「この駅に降り立った昭和50年代の頃」のまま‥で
天井の板を見上げて「あ‥そういえば自分、その頃、この板を眺めた気がする」
「俺は変わったかもしれんけど、これは変わらんなぁ」とか、デジャブかも知れませんが
それから、そんな事にまで想いが馳せました。
デジャブではなく本当に、当時トイレを使ったのは覚えてます。
なにせ国鉄時代‥乗ってきた下りから折り返しも考えずヒョロっと降りたはいいけど
なんと上りは2~3時間後(・∀・;)散々この駅には飽きる以上に滞在しましたから。
![イメージ 3](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/o/ookamigoya/20010101/20010101165200.jpg)
![イメージ 2](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/o/ookamigoya/20010101/20010101165150.jpg)
所で、この信号施設‥なぜに末続駅にあるか?ですが
(隣の現在も有人駅である広野や久ノ浜ではなく‥国鉄時代から上野から出て初の無人駅が末続なんですが)
本来、末続駅は常磐線開通当時は信号場でした。それを付近の住民が国?国鉄?に懇願し、
あの時代では珍しくホームや駅舎は「付近の山から切り出したものを付近の住民が建設に協力して出来た駅」
それが末続なので‥そも、そもは「信号場」が設計段階の姿なので‥で、そんなこんなで
ここに信号施設が集中配置されています。
そして上の画像に写ってる機械室は、私が始めて降り立った頃の
昭和50年代後半には無かったか?1個だけで、
駅のトイレ付近は、当時、もっと広々してた記憶があります。
現在の姿になったのは昭和末期の頃で‥高校の友人が楢葉町に住んでいたので
その際に、少し変化した姿を見て、その後バイクで来た際に寄った記憶があります。
(ちなみに国鉄が無くなったのも昭和末期の昭和61年3月?でしたっけ?)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E7%B6%9A%E9%A7%85
wikiを見ると無人化が平成5年とありますが、それは多分、駅事務室の閉鎖を指してるのであり
少なくとも昭和50年代後半~昭和60年代には駅員(委託としての切符販売)も、されてませんでした。
現時点での管理は「いわき駅」とありますが
以前は「久ノ浜駅」‥そして久ノ浜が外部委託になった時は四倉駅でした。
記憶にあるのは、末続駅の中に「連絡先が四倉駅で電話番号が記載」されてた事。
その後、平成も10年になると、電話帳に各駅の番号が記載されなくなって
管理センターみたいな番号しか載らなくなりましたよね。
‥っても四倉駅の電話番号‥私は覚えてますけど。笑
![イメージ 4](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/o/ookamigoya/20010101/20010101165210.jpg)
以前は駅に直接電話して電車の時刻やら、運賃、はたまた忘れものやら、小荷物あった頃は、その件と
駅に居る駅員さんとの距離は短かったのですが‥今は「そんな電話したら業務妨害」ですからね。
時代はホント変わりました。
まぁ、そんなこんなで‥末続駅でした。